明治21年(1888)に大洲城天守は解体されましたが、往時の姿にロマンを求めて探求する人々の姿は今も昔も変わりません。復元より前に、過去を解き明かしてきた人々の物語です。
大洲城天守の創建と解体
平成16年(2004)に復元された大洲城天守。復元の基になったかつての天守がいつ建てられたかは現在のところ判明しておりません。研究が進むにつれて、創建された時期は江戸時代初期の慶長年間と推測されています。当時は関ケ原の戦いから大坂の陣までの間に当たり、全国各地で城郭建設が相次ぎ、大洲城もその中の一つだったと考えられます。当時、大洲を治めていたのは、藤堂高虎、脇坂安治と安元の父子に当たりますが、この中でも脇坂家の時代がもっとも有力といわれています。
江戸時代初期に建てられた大洲城天守は明治維新を迎えるまでの約250年もの間健在していました。しかし、明治時代に入り城郭がその役割を終えると、その管理維持が行き届くなり荒れるままになってしまいます。大洲城天守は様々な経緯を経て、民間の所有となっていましたが、明治21年(1888)の海南新聞(現在の愛媛新聞)に大洲城城郭の解体に関する記事が掲載されたことから、この時に天守は姿を消したことがわかりました。
残念ながら姿を消してしまった大洲城天守でしたが、その後、地元の郷土史家などを中心にかつての天守を研究し記録を残すようになりました。その研究の中でも平成の復元に大きな影響を与えたのが、城戸久(きどひさし)氏です。城戸氏は名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)を卒業後、母校で教授を務め、戦前から戦後にかけての全国の城郭を研究した一人です。戦災からの復興で各地に天守が再建されましたが、その多くに携わりました。
大洲城天守については戦前に大洲を訪れ、調査を行いました。現存している大洲城天守雛形から天守の構造を、古写真による外観などから大洲城天守の築城時期などを考察、また現存する4棟の櫓も調査され、「伊予大洲城天守考」にまとめました。太平洋戦争により発表が危ぶまれましたが、戦後には無事に発表、城戸氏が残した詳細な記録が、大洲城天守について知るうえで基礎的な役割を担うことになりました。城戸氏の研究があったことで大洲城天守の復元が成されたといっても過言ではありません。